インタビュー・シリーズ❷ 竹富島憲章のバックボーンとなった「うつぐみ」の精神:竹富島集落景観保存調整委員会の阿佐伊拓さん
更新日:2022年5月7日
各地で歴史まちづくりに取り組む方々へのインタビューをシリーズでお届けしています。全国町並み保存連盟では「集落・町並み憲章」の解説本の作成をあたり、18ある節のそれぞれに、もっともふさわしい活動をされている団体へのインタビューを載せるという方針で編集を進めています。解説本では、原稿量も限られ、刊行も少し先になるので、インタビューが終わり次第、なるべく全文を公開していきます。二回目は、竹富島集落景観保存調整委員会の阿佐伊拓さん。憲章第9節「住民主体のまちづくり」に関連して、お話をうかがいました。なおインタビューは、2022年3月17日に「集落・町並み憲章」解説本編集委員会(全国町並み保存連盟運営会議が兼務)がオンラインで行いました。
福川:集落・町並み憲章の解説本を作ろうというプロジェクトが進行しております。憲章は全部で18節からなっていて、各節ごとにノートや解説をつけるんですけれども、その冒頭はぜひ連盟の会員のへ方のインタビューで構成しようということで、順番にインタビューをお願いしています。今日、竹富島の阿佐伊さんにお願いしてるのは、第9節の「住民主体のまちづくり」に関連したインタビューです。第9節は「歴史的町並みを保存する主体は、その地域の住民であり、地域社会である」から始まって、住民が保存憲章を定めることを勧める内容となっています。憲章というと、わが国では、妻籠、白川村、そして竹富島が知られていて、じっさいにも大きな役割を果たしています。というわけで、本日は竹富島集落景観保存調整委員会の阿佐伊拓さんにインタビューをお願いしました。同委員会は、憲章に規定された、憲章に基づいて町並みをマネージメントする組織です。ノートの方では、ほかに川越のまちづくり規範に関する協定などもとりあげます。今回も編集員全員でお話をうかがいます。では、阿佐伊さんよろしくおねがいします。
9. 住民主体のまちづくり
歴史的町並みを保存する主体は、その地域の住民であり、地域社会である。なぜなら今ある歴史的町並みは、住民の祖先が生活してきた記録であり、努力の結晶でもあるからである。住民が、地域のもつ歴史や、無形の芸能・信仰・祭礼を含めての文化的独自性を、自覚し、語り継ぎ、継承し、際立たせることが、今後の地域発展の基礎となる。
各地の歴史的町並み保存憲章は、地域社会の合意形成のうえでこれまで大きな役割をはたしてきた。文化的独自性を反映した町並み保存の理念原則目標を、地域住民が憲章や規範として明文化し日常の保存活動にいかすとりくみは、その共同作業の過程自体も含め、住民主体のまちづくりに有効である。この憲章が今後、そのための共通的な基礎として各地で役立つことが期待される。
阿佐伊:はい、どうぞよろしくおねがいします。
(コンドイビーチと入島料)
福川:本題に入る前に、竹富島に関しては二つ気になっていることがあります。コンドイビーチのリゾート開発 と入島料問題です。コンドイリゾート開発の方はいかがですか。
阿佐伊:コンドイリゾート開発の件については、大勢の方から島の考えが間違ってないよっていう励ましの言葉をいただいて運動を続けてきました。それに伴って起こされた、我々の主張が名誉毀損であるという訴えも無事に終わりました。ただ計画自体が止まったわけではなく、沖縄県が都市計画法にもとづく開発許可をおろしているので、法的には建てることができます。ただ私たちは、世論という大きな力をいただいています。
事業者との協議は竹富公民館が担っていますが、今は止まっている状態です。敷地に立てていた反対の看板もいったん取り下げています。多分メリハリがとっても重要で、とにかく今は公民館トップの交渉がしっかりと成立するように、静かに見守っています。
福川:入島料のほうはいかがですか?
阿佐伊:僕は財団(竹富島地域自然資産財団)は監事という立場で、執行側ではないんですが、コロナ禍で来島者が減っている一方、周知は少しずつ進んでいるという話は聞いてます。本来なら、船賃に上乗せして皆さんからいただくっていう形が一番理想的ですが、それができていないので、ちゃんと入島料がいただけるような環境作りを、どうしても島で取り組んでいかなければなりません。それが今、財団の運営のむずかしいところです。ただ幸いなことに、財団の理事が若い世代なんですね。
福川:松代の町並みゼミに参加された方達ですね。
阿佐伊:そう、彼らがすごくエネルギーがあるので、今、主体的に頑張って取り組んでいるところです。
福川:そういういろんな出来事の中で、竹富島憲章があるということは、やっぱり大きな意味があるんでしょうか?
阿佐伊:すごい大きいです。本当に大きいですね。「竹富うつぐみ(一致協力)」って言葉があって、その言葉があるだけで地域がまとまるということがあるんですが、そういうシンボリックな役割を果たしています。普段から触れるとか触れないとかっていうものではなくて、憲章が存在するというだけで、その旗のもとにみんなが結集する、そういった機能を持っている。
もとになった1972年の憲章案は、本土復帰で島が一番大変だったときに、大勢の方から様々なご協力をいただいてできあがったという経緯があります。その憲章を制定するまでの背景、関わった人たちの数、それにそれに取り組むエネルギーが、言葉の節々ににじみ出ている。
だから、2017(平成29)年3月31日の改定の時、公民館に設けた特別委員会で検討でも、ほとんど変えるところがなかった。すごく練られていて、一生懸命考えて言葉の一つひとつを繋ぎ合わせていった思いがものすごく伝わりました。
福川:それでも変えたところは?
阿佐伊:基本理念の「生かす」を「活かす」へ変えました。今までは、「憲章を生かす、生かせるようにみんなで考えていきましょうね」だった。今度は、「憲章自体を活力のあるものとして活用していこう」と変えた。この生活の生と生活の活の言葉の違いがものすごく、今の竹富島を象徴してるんじゃないかなと僕は認識しています。
あと、最初の「美しい島を守る」の項に「竹富島が美しいといわれるのは、古い沖縄の集落景観を最も良くのこし、美しい海に囲まれているからである」とあったのを「沖縄の古い農村景観を最も良くのこし」と変え、「農村景観」であることを強調しました。竹富の町並みは、島の農村集落ということで保存地区に選定されてます。それが観光がどんどん前に出てきてしまうと、本来の農村集落景観とはなんぞやって話になるわけですよ。だからこの農村集落っていうのは必ず入れようということで、こだわってます。
訂正の改訂じゃない、改めて定める改定です。間違ってるものを訂正するんじゃない。訂正するっていうのは旧憲章に失礼ですから。
(制定の経過:1972年の憲章案が土台)
福川:少し経過を確認したいのですが、旧憲章を定めたのは1986(昭和61)年3月31日ですね。重伝建地区になる前年ですが、憲章の制定と重伝建地区選定とは連動しているのですか。
阿佐伊:重伝建というより、町並み保存による島おこしという機運が高まった時期で、その一連の動きの成果のひとつと言った方がよいです。
1986(昭和61)年1月に公民館に憲章制定委員会が設けられ、そこで「竹富島憲章草案」を作成し、3月31日の公民館定期総会で承認されました。3ヶ月ほどであっさりと制定された。それができたのは、1972(昭和47)年に「竹富島を生かす憲章案」ができていたからです。1972(昭和47)年は本土復帰の年で、島の中は大きく揺れていました。外部資本による土地の買い占めが進んでいました。生活のほうは、「島ちゃび」といって、離島苦でどんどん人々が離れていった。しかも昭和46年には干魃と風台風に襲われて農業が打撃を受け、土地を手放さざるをえない状況に陥り、一時は島の1/4が外部資本の手にわたっていた。
そのような状況の中で、1971(昭和46)年4月に竹富島を生かす会が結成されて、憲章案の作成が進められた。つまり、1986(昭和61)年にはじめて憲章を作り始めたわけではなくて、すでにかなり時間をかけて揉まれた憲章案があったのです。ちゃんとした話し合いとか、いろんな集まりの中で言葉が交わされ、みんなの会話を通じて、その言葉がいいとかあれがいいっていうふうに練られた案ができていた。
福川:「売らない、貸さない、壊さない」で有名な妻籠の憲章の翌年ですね。
阿佐伊:我々はもう妻籠にはもう足を向けて寝れないぐらい、本当に妻籠の方々からいろんなアイディアをいただいた。教わったことの一番は、町並みには、結果として、自分たちの物の考え方もしくは思想が滲み出しているっていうことじゃないかな。だから言葉じゃないんですよ。最後は言葉で表現するしかないけど、重要なのは、その言葉を導き出すまでのものの考え方だということです。
これは竹富の特徴なんですけど、竹富って物事がすぐ決まらないんですね。ある事を誰かが提案します。そこでは決まらない。ただ、その提案した内容がずっとそのみんなの頭の中に残ってるわけです。そして、5年とか10年とか経って突然その話がポンと出てスポッと決まったりする。安易に決めずに、時代にあっているのかどうか様子を見ている。
入島料も同じです。これも昭和50年代から提案があって、それについてやっぱり反論があって、提案を取り下げて、その後またこの話が出てきて、またこれも駄目だってなって、紆余曲折をずっと繰り返して、地域資産保全法ができて実行に踏み込んだ。憲章と同じです。
福川:発案からだんだんお酒を醸造するような合意形成のプロセスですね。その経過の中で、みんなの頭の中に何かが醸し出されている。
阿佐伊:憲章の文言を覚えているわけではありません。覚えてないんだけれども、憲章の動きをする。ものの考え方の中に憲章の精神が染み付いてる、と言ったらいいんでしょうか。
福川:案の中には、現行の基本理念「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」「生かす(活かす)」が盛り込まれていたんですね。
阿佐伊:5番目はなかったと思います。しかし、文言は過激でした。外部資本の土地の買い占め、干魃と風台風、本土復帰に伴う世がわりが背景にありましたから。憲章制定員会は、過激な文言を柔らかい表現に修正したほか、「観光関連業者の心得」を加えるなどして竹富島憲章草案をまとめ、1986(昭和61)年3月31日の公民館総会の決議に至った。
町並み保存による島おこしという機運が高まっていた時ですから、憲章は、観光を島の主産業にしましょうっていうのを明確に打ち出している。観光関連事業者は、この憲章に基づいて、こういうことをやってくださいねということで「観光関連業者の心得」という特別な章を設けた。
福川:平成29(2017)年の改定へ戻りますが、最初にうかがった以外、どんな点が改められたのですか
阿佐伊:「二、美しい島を守る」は、12項目が9項目へ整理されました。たとえばゴミの処理については、今の暮らしにあわせるような内容に変えています。「四、観光業者の心得」では、「消灯は23時まで」は、もう消灯23時っていうはあり得ないので「23時以降は、島の平穏に努める」と直しました。「五、島を活かすために」は、「生」を「活」に変えたほか、「まちなみを形づくってきた技術、経験を継承していく」「観光業は、島本来の姿を活かしながら推進していく」の2項目を加えました。「六、外部資本から守るために」は、タイトルを「竹富島を守るために」に直しました。番号は、最初の「保全優先の基本理念」を番外にしたので、ひとつづつ若くなります。
でも、基本は変わらず、ほとんどいじるところがなかった。あと、「五、竹富島を守るために」の前文は、もとは「次に掲げる事項は、事前に調整委員会に届け出なければならない」だったのを「公民館と調整委員会」に改めました。ちょっと強くしたんです。
福川:そんな完璧なものを、改定しようとした動機は?
阿佐伊:今の時代に合わせていこうという声がありました。直すか直さないかは結果で、時代に合っているかどうかを絶えずチェックし、メンテナンスしていく必要があります。あと、2017年3月31日に決議していますけど、2016年度ということだと30周年。改定作業は、竹富島憲章制定30周年特別委員会を公民館に設立して進めました。毎月1回集まって、外部の委員として三村浩史先生にもアドバイスをいただきました。
福川:30周年ということもあったのですね。編集委員のみなさんのところでは、憲章を検討したことがありますか?
(憲章の役割)
中村(倉敷):倉敷では、憲章はありませんけど、今ガイドブックをつくっています。倉敷と竹富は民藝の関わりがずいぶんあるので、今後、交流をして学ばなきゃいけないことがたくさんあると思います。倉敷民芸館初代館長の外村吉之介が、そちらで活動した時のことを全然知らないので、一度お伺いして話を聞きたいなと思っていました。
阿佐伊:ぜひいらしてください、外村先生は竹富島の恩人の1人です。竹富島の土地が、外部資本に買い占められそうになった時、日本民藝協会が古竹富島保存会っていう組織を立ち上げて募金活動とか、そういったものに協力をしてくれたんですね。日本民藝協会夏期学校も竹富で開催をしてもらった。今沖縄を代表するミンサー織の五四のデザインも、民藝協会の方々のご尽力がとても大きい。
中村:つい最近、倉敷では、最後の民藝店が閉鎖されそうになった。その店がなくなったら倉敷と民藝の関わりがなくなるので、どうしようかとあせりましたが、ギリギリで、若い方が後を継ぐことになりました。それぐらい町が変わっています。竹富の憲章は、伝統工芸の継承をはっきりとうたっています。
北島(八女):八女では、憲章のことは、最初のころ議論をしました。妻籠の「売らない、貸さない、壊さない」を見て、これでは町並みが生き延びていかないので、八女だったらどうするかなっていう議論をしたんです。しかし、住民の代表と話したときに、憲章というところまでしないでもいいんじゃないかと、保存会を若い人に引き継いでいく段階で、自分たちの普遍的な方針みたいなのを掲げたらどうかっていう話で終わってます。
阿佐伊:竹富の場合、大変ありがたいことに先人がこういったもの残してくれたので、我々はすごく楽をさせてもらってます。やっぱりこの旗のもとに動けるので。今制定しようとすると、この多様性の世の中でとても難しいなあとか、利害関係が前に比べてとても複雑化してるなあとか、きっと大変だなと思います。ただ、憲章があることで、何かがその人の心の中で生まれると思うんですね。その生まれた何かをその子供たちに伝える、でこれをつないでいくってのがやっぱり一番重要なんじゃないかな。
竹富は、幸いなことに小さな島で、その文化に理解を持ってる人が多い、そうじゃない人も当然いるけど、その何かをずっと繋げようって意識をしているところです。人口が20万とか30万人いるような都市の中で、町並みを保存の取り組みをされる方の大変さとかご苦労はもう察するに余り有ります。ただそれがもしうまくいって、その地域の文化とか精神性が残せれば、おそらくすごく大きな財産になるのかなあというふうに思います。
福川:この憲章があってすごくよかったというのはどういう時ですか
阿佐伊:いやもう、やっぱり島に危機が訪れたときですね。そのときには憲章が前面に出てきます。憲章が守るよりどころになる。要は、物の考え方の根幹なんですね。私の父は羅針盤と表現していました。だから、この憲章がなかったらまとまらないんですよ。憲章があることによって「こういう考え方があるんだよね、竹富島には」っていうのをみんながわかる。だから普段はなくてもいいんです。問題があったときとか、本当にどうしようってなったとき、あとは「うつぐみ」っていう言葉が出てくれば、その旗のもとに我々は危機を乗り越えようと努力ができる。そういうものなんじゃないかなと思います。
福川:コンドイリゾートの時も?
阿佐伊:僕はこの憲章を前面に出して、物事に当たりましたし、島の皆さんにも協力をしていただきました。知事にも憲章を渡しました。
中(小樽):阿佐伊さんのお話聞いて、こういう理想郷に近いような地域に住まわれていて、精神的な生き方を反映しているという言葉を聞いて、本当に素晴らしいことだなあとつくづく思い知らされました。小樽では、これからのまちづくりの方向をある程度決めていかないと、町の方向性があっち行ったり、こっち行ったりしてしまうので、それを制度として決めていかなきゃならないんではなということを考えています。まだ具体的に憲章っていうレベルまでは行ってませんけれど。
福川:竹富憲章では、一定の行為について「事前に調整委員会へ届けなければならない」と定めています。また、最後に「この憲章を円滑に履行するため、公民館内に集落景観保存調整委員会を設け、町、県、国に対し必要な措置を要請する」としています。阿佐伊さんは、ずっとその会長をつとめておられました。
阿佐伊:もう今はちがいます。住民がまち作りに参画できるということはとても素晴らしいと思うんですよ。ただすごく専門性が高くなってきて、一時期、すごく調整委員会がたたかれてた時期があります。調整委員は若い人の勉強の場だっていう見方が浸透してしまって、お前ら知らないのに何偉そうなこと言ってんだっていうような言い方をする人も出てきた。ほんとに調整委員会ってすごく大変です。
福川:毎月とか、定期的に開くのですか?
阿佐伊:申請があれば。申請がなかったときはお休みです。
福川:妻籠の憲章では「統制委員会」という名前ですね。
阿佐伊:でも統制っていう表現も多分ありなんじゃないかなと思うんですよ。統制になると、うんここに何かあるってみんなが意識をするんですね。調整だと、要は調整だから、融通が利くだろうと。だから、もしかしたら、統制の方がみんなでこれを守っていきましょうねって意識がある。統制の方が言葉としてはいいんじゃないかなと思ったりもします。大変ですよ、本当に調整は。妻籠は素晴らしいと思います。
福川:その調整委員会ではどのレベルまで提案が上がってくるんですか? 建物を直すのはもちろんだと思いますが。
阿佐伊:全部です。あまりにも規模が大きいものだと伝建の審議会にも出します。調整委員会では調整ができない複雑な問題も審議会にあげます。リゾートや水牛車の営業所に反対する看板では、意見表明板だということで調整委員会の理解は得られたけれど、審議会からは景観にそぐわないと撤去の要請を受けました。
荒牧(川越):憲章ができて、もう次の世代に入ってるかと思うんですが、子供たちへの継承とか、そういった努力はどのようにされてますか。
阿佐伊:努力は多分してないと思います。ただ、島の暮らしの中で、確実に学んでいると思います。憲章の文言を理解するのではなくて、この憲章があるという考え方を学んでいるわけです。若い世代の動きの中にそれが垣間見えます。竹富ッっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっmっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっbで生まれ育っただけではなくて移住してきた方々もいます。そういった方々は「島ならい」って言うんですけど、いろんなことを島から教わります。いろんな集まりで、島の先輩とか仲間と話をするうちに、島の考え方を学んでいく。これって目に見えるわけではない。だけど、それがこの島の本当の根幹を成しているものの考え方なんじゃないかなあ。うまく表現ができないんですけど、僕は、これが確実にあると思っています。
僕も東京生まれなので、学んだことが山ほどあります。特に動きですね。祭祀を執行するためにはどうしたらいいのか、いろんな人へのお願いやお礼の仕方、いろんな人を巻き込んでいく力、こういったものは、憲章の言葉を知らなくても、自分のお父さんやおじいちゃんとかから教わっていく。
丹羽(京都):公民館とおっしゃっているものが、大きな役割を果たしていますが、そこって皆さんが集まってすべてを議論する場っていう感じなんですか。そのイメージがなかなかつかめなくて。そういう場所と役割があるっていうのがすごいし、それが憲章にも関わっているんだということがわかったのですが、その公民館がどういう場所でどういう中身なのかを、勉強させてもらいたいと思ったのがひとつ。
阿佐伊:公民館長は大統領です。あと、祭りの祭主です。行政との折衝とかは全て公民館を通してやります。議会がありますが、最終的な決定機関は年度末に全員が集まる公民館定期総会です。公民館の役員になると本当に大変で、1年間自分の仕事はできないです。今島の人口は350人ほどですが、18歳で会員になる資格が生まれ、現在の会員数はたしか250人ちょっとです。よく人口500人単位ぐらいが一番話がまとまる、合意形成が容易な規模だと言われますが、竹富がまさにそれです。だから、川越とか倉敷はもう本当に大変だなと思います。
丹羽:ふたつ目は、祭りとか集まりの中で精神や心がつながっていくというのがすごく、どういう状況でも大切なことだなと思って聞いていました。阿佐伊さんは、何度も、先人が残してくれたすごくいいものがあってという表現をされていましたが、私なんかは、事件や課題が起きたときに、「何でこんなことになってんねん」っていう話をついしてしまいます。この間、京都の町並み保存の制度を見直しているときもそうでした。そうではなく、その時々の人が苦労したことへの思いを持ちながら、次の形を作っていくことが大切で、そのときに一番大切な精神が憲章にまとまってるっていうのはすごく羨ましい。と同時に、考え方というものは、どういう状況や環境であっても大切にしていかないといけないと思って聞いておりました。
福川:まとめていただきました。阿佐伊さん、最後に何か付け加えることがありましたら。
阿佐伊:ひとつだけお願いですけ。今ここで話をしているのは、僕という人間から見た竹富島です。僕が竹富島ではないので。この話を聞いて、ぜひ島へお越しいただいて、民宿に泊まって、その民宿の年寄りとか島の方々との話を通じて、もっともっと竹富島を知ってもらいたいなって思います。島を訪れる方々も、竹富島を支えていくださる一員です。
以上
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