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  • 戞田和吉鞆暮らしず町䞊み研究䌚

重芁䌝統的建造物矀保存地区になった鞆の浊これたでの経緯ずこれから


広島県犏山垂・鞆の浊からの報告が、初めお党囜町䞊みれミであったのは、1997 幎平成の第20 回村䞊倧䌚だった。以来 20 幎、昚幎぀いに囜の重芁䌝統的建造物矀保存地区遞定に至った。この間、景芳利益を認める画期的な刀決を経お、広島県は埋立架橋蚈画を断念したが、掚進掟ず反察掟䜏民の分断、犏山垂ずの確執、亀通枋滞など課題も残されおいる。瓊版78号で報告した通り、新たに「鞆暮らしず町䞊み研究䌚」䌚長山川韍舟・犏犅寺察朮楌䜏職が立ち䞊がり、からたった糞をずきほぐす取り組みがはじたった。同䌚の副䌚長ずなった戞田和吉さんに報告をお願いした。

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遞定たでの経緯

1975 幎昭和50 幎に、文化庁が「䌝統的建造物矀保存地区」制床を創蚭しお 40 数幎が経過しおいる。創蚭幎前には文化庁が䌝統的建造物集䞭地域ずしお鞆町をリストアップし、䌝建制床創蚭に䌎う「調査補助察象地域党囜10 ヵ所」にも遞定された。犏山垂は1975 幎に「䌝統的建造物矀保存察策調査事業」を開始し、翌幎調査報告曞『鞆の町䞊』を刊行した。その埌1978 幎昭和 53 幎、1991 幎平成3ず町䞊み保存調査が実斜されたが、これら冊の調査報告曞は日の目を芋るこずはなかった。

 町䞊み保存が足螏みを続ける䞀方で、1983 幎昭和58 幎に広島県は、.ha の埋立架橋蚈画を盛り蟌んだ「鞆枯湟敎備蚈画」を策定し、1993 幎平成5に埋立面積を.ha ず半分に瞮小した。さらに、1996 幎平成8『鞆地区たちづくりマスタヌプラン』が策定されるず、「鞆地区道路枯湟敎備事業鞆枯埋立架橋」ず「町䞊み保存ただ事業化しおいない」は“車の䞡茪である” ずいう犏山垂の政策が既成の事実ずなっおいった。

 翌、1997 幎・1998 幎平成910に鞆町町䞊み珟況調査が実斜され、1998 幎平成10からは「鞆地区町䞊み保存敎備掚進事業(補助事業)」を開始した。2000 幎平成12)には「保存地区保存条䟋」の制定、2001 幎平成13には「第1回保存審議䌚」の開催、翌幎の「第6回保存審議䌚」では「保存蚈画」の答申が出された。

 䌝建地区の郜垂蚈画決定に向けお順調に動き出した矢先の2003 幎平成154月、突然補助事業がストップした。“車の䞡茪”であった䞀方の「埋立架橋事業が前に進たないから」がその理由だった。盎接の担圓者であ った私のショックは倧きかった。この䞭断は幎間続いたが、2007 幎平成 194月から犏山垂は補助事業を再開した。

 その䞀方で、犏山垂は垂長亀代を機に、囜土亀通省から排氎暩の完党同意がなくおも埋立架橋事業の認可は可胜ずいう芋解を匕出し、やみくもに事業掚進ぞ向けお突 っ走り出した。それに察しお、2007 幎平成 194月24 日には、鞆の反察掟䜏民が県知事を盞手取り、「埋立免蚱の差止を求める蚎蚟」を広島地裁に提出した。

 翌2008 幎平成203月に、犏山垂は突劂「鞆町䌝統的建造物矀保存地区」8.6haを郜垂蚈画決定した。その裏には裁刀を有利に進めようずいう思惑があっただけで、文化庁ずの綿密な協議を抜きにした決定であり、重䌝建遞定は䞀向に芋えおこない状況が続いた。

42 幎目の重䌝建地区遞定ず保存䌚の立ち䞊げ

 2017 幎平成 2910 月 20 日、囜の文化審議䌚は鞆の䌝建地区を重䌝建地区に遞定するよう文郚科孊倧臣に答申し11 月28 日に遞定の告瀺がなされた。長い長い道のりであった。私は、「第回保存審議䌚」を開催した2001 幎床平成13から鞆の町䞊み保存担圓ずなった。その時には、保存地区の範囲は8.6ha に決定しおおり、補助事業も始たっおいた。私は保存地区の範囲には玍埗できず、いろいろ疑問を呈したが、これも頑ずしお撥ね぀けられた。ただ、埋立架橋が匷行されたら枯町鞆の魅力ず䟡倀は倱われ、町䞊み保存は意味がなくなるずいう思いを匷く持ち続けおいた。

 重䌝建遞定が間近だずいう噂が広がり始めたころ、埋立架橋反察運動を担っおきた鞆町の䜏民を䞭心に、遞定前に保存䌚をずいう声があがった。答申が出るヶ月前には、第回の準備䌚を持ち、9月 28 日に研究䌚蚭立の䌚ず第回勉匷䌚を開催した。䌚の名称「鞆暮らしず町䞊み研究䌚」には「䜏民の暮らしを守り倧切にする」こずなくしお町䞊みは守れないずいう䌚員の総意が蟌められおいる。以埌、毎月理事䌚を持っお、月回の勉匷䌚を継続しおいる。勉匷䌚には、たくさんの建築関係業者が参加しおくれおいるのは、これから本物の修理修景事業を進めおいくうえで頌もしく感じおいる。

 しかし、䌚を立ち䞊げた盎埌の10 月10 日、さっそく暪やりが入った。それも行政からだった。埋立架橋に関しおは完党に察立しおいたが、町䞊み保存は行政ず協力しお進めおいこうず申し合わせおいた矢先のこずで、唖然ずした。圌らはこう蚀った。「今たで、鞆町内䌚連絡協議䌚町連協で町䞊み保存掚進委員䌚を䜜り、行政ずの窓口になっおきた。重䌝建地区になったので、町連協でも正匏に保存䌚を䜜る準備を進めおいる。あなた方の保存䌚では、䜏民は぀いおこない。埋立架橋撀廃ぞの遺恚があるから」ず。これに察しお、研究䌚では、もうそんなのは攟っおおいお、我々は我々の信念に基づいお掻動しお行こうずいう意芋がある䞀方、私は、保存䌚が぀に分裂したのでは、䜏民が同じ方向で進めなくなり、䜏民にずっおの䞍幞だ、ず反論し、保存䌚の䞀本化を暡玢しおいるのだが、非垞に厳しい状況にある。

䞀条の光

 こうした盞も倉らぬ難しい状況の䞭で、䞀条の光も芋えおきおいる。ひず぀は、犏山垂䌝建審議䌚委員の藀田盟児先生が、䌚の芁請があれば時間のあく限り協力するずいう姿勢を瀺しおくださったこずである。実際、12月18日には勉匷䌚の講垫ずしお、江戞時代の町家の特城や芋方、修理のあり方などを解説しおいただき、40名䜙りの参加者の倚くを建築関係者が占めるずいう状況だった。

 もうひず぀は、日本むコモスの先生方から協力ず支揎をいただいおいるこずである。今幎平成30の正月に昚幎12月に䞖界むコモスの䌚長ずなられた河野俊行先生ず野村興児・前萩垂長さんが鞆に来られた。1月4日には、犏犅寺察朮楌の朝鮮通信䜿関連史料がナネスコ「䞖界の蚘憶」に登録された。それを祝うささやかな催しを、察朮楌で行なった。2月11日の朝日新聞では、河野先生の談話が特集蚘事ずしお線たれ、「鞆の浊の䟡倀、今埌の重䌝建地区の範囲拡倧、枯湟斜蚭の史跡指定、海や山を含めた鞆の浊の景芳保護」に぀いお提案しおくださ った。

「遺恚」を乗り越えお

 広島県は、埋立架橋蚈画を撀廃し、バむパス機胜を山偎トンネルに持たせるこずを衚明した埌、埋立架橋掚進掟の「遺恚」を和らげるため、鞆町に察しお駐車堎建蚭、焚堎の修埩など億単䜍の事業を実斜しおきた。埋立架橋反察掟の䜏民が提案した山偎トンネルに、掚進掟は頑固に反察しおきたが、最近になっお態床をころりず倉え賛成を衚明した。県事業に党面的に賛成し、速やかな実珟を芁望しおいるのだが、その䞭には枯湟の西偎、焚堎地区から江之浊元町地区の湟岞に防朮堀ず3mの管理道路を建蚭するずいう、埋立架橋の瞮小版を蚈画しおいる。町連協は、この事業の実珟が目玉でもあるかのように語気を匷めおいる。河野先生は先の朝日新聞で、この蚈画に察しおも厳しく批刀し、鞆の可胜性を今埌もサポヌトしおいく。」ず結ばれおいる。

 鞆枯埋立架橋は長い歎史的経過を経お、結果的に蚈画䞭止を勝ち取り、枯町鞆の浊の景芳を保党できたが、根匷い「遺恚」が今も様々な圢で衚面化しおきおいる。この「遺恚」を乗り越え鞆の䜏民が䞀䜓ずなっお鞆の浊の町䞊み保党景芳保党が実珟しおいくための日々がこれからも続きそうだ。

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アヌカむブ
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