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  • 福川裕一

インタビュー・シリーズ❹ 文化庁の当初案は7ha、宿場と街道は一体と小林俊彦さんが異を唱えた:妻籠を愛する会・藤原義則さんに聞く

 各地で歴史まちづくりに取り組む方々へのインタビュー・シリーズの4回目。全国町並み保存連盟では「集落・町並み憲章」の解説本の作成をあたり、18ある節のそれぞれに、もっともふさわしい活動をされている団体へのインタビューを載せるという方針で編集を進めています。解説本では、原稿量も限られ、刊行も少し先になるので、インタビューが終わり次第、なるべく全文を公開していきます。今回は、日本の町並み保存の草分け、妻籠を愛する会の藤原義則さんです。憲章第2節「2. 歴史的町並みの構成要素」に関連して、お話をうかがいました。妻籠の重伝建地区が、他地区と比べるとダントツに広い1245.4haを指定した経過や意味をうかがっていきます。インタビューは、2023年6月21日に妻籠を愛する会のオフィスで行いました。


妻籠・藤原さんインタビュー
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2. 歴史的町並みの構成要素  住居とその周辺の環境、これらのなかで展開するくらし、こうした要素は一体となった不可分なものとして捉えることができる。 歴史的町並みを構成する物的要素は、住居やさまざまの建物・構築物のみにとどまらず、耕作地、森林や植生、山・川・湖・海浜などの地形である。これらは、遠近の景観を形成しているばかりでなく、全体が住民にとって生活・生業を営む舞台でもあった。住居をはじめとする人工的な構築物、その周辺に広がる自然の景観、この両者の調和が歴史的町並みのもつ魅力の源泉である。

左)いちこくお休み処で外国人観光客と談笑する藤原さん(2023.6.21)、右)北信越町並みゼミ熊川大会にて(右から、藤原さん、小林さん、松瀬さん、2016.11.27)


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Q:早速ですが、妻籠が、1245.4haという広大な重伝建地区を指定するようになった経過を教えていただけますか。


藤原:文化庁からの最初の提案は、同時に進んでいた祇園新橋や産寧坂と同じ規模の7haだった。1976(昭和51)年に重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けたわけですが、その打ち合わせに、南木曽町の役場の2階の会議室に皆さんが集まったとき、小林俊彦が怒ったんですよ。7haとは何事だと。街道があって宿場が成り立ってんで、その街道を含めて自分たちが保存しようとしているのに、7haとは何事だと。明日の朝日新聞の一面にデカデカと出してもらうからそのつもりでおれってね。



Q:それで1245.4haを主張した。


藤原:いや、最初は1500haと言った。


Q:もっと大きかった!?


藤原:1500haというのは、旧妻籠村全域なんですよ。妻籠村というのは馬籠峠のてっぺんから、隣の三留野村境までで、その中を南北に中山道が貫いてると。その南北に貫いてる中山道を除いて、集落というのはありえない。その中山道から見える範囲は全部保存しようよと。山の中腹であっても、そこに変なビルが建ったり、変な構築物ができるということは、景観上良くないと。最終的には、19号線の木曽川沿いにある渡島は外れて、1245.4haになった。


Q:宿場からだけでなく、中山道から見える範囲ということなんだ。


宿場を囲む山も、宿場からだいぶ離れた一石栃立場茶屋(右)も、重要伝統的建造物群保存地区の中だ


藤原:そう、妻籠の第一は集落保存です。その宿場保存っていうのは街道があっての宿場保存だろうと。街道のないところに宿場なんてあるはずはないというのが、最初の起こりです。中山道は天下国家の大通りなんで、それを大事にするというのが第2番目に来る。一番は集落で、第二番目が中山道。


Q:たしかに。中山道が保存の対象なら、道の部分だけというわけにはいかない。


藤原:とりまく山の景観が重要だという発想は最初からあって、1968(昭和43)年に保存工事が始まったとき、関電の社長が視察に来て、何かお土産はいりますかと言われたんで、お土産の代わりに、関電の送電線の鉄塔がギンギラギンで光るから、あれを全部保護色に塗ってくれるよう頼んだ。それで全部色を塗ってもらった。1972年に塗り替え工事が行われているから、重伝建地区選定より4年前のことです。鉄塔のてっぺんの方だけ、黄色く目立つようにしてあるんですけども、あれは巡視するとき、ヘリコプターが引っかからないための措置です。墜落事故も実際に起きたんだよね。長野放送のヘリコプターが木曽川沿いの送電線に引っかかって、アナウンサー入れて3人か4人亡くなった。


Q:その、小林さんが怒った場所に、藤原さんは同席されていたんですか?


藤原:いや、私は全然知らなかったけど、後から聞いた。でも言いそうなことだ。


Q:とても同感です。それで、すんなり区域が拡大したんですか?


藤原:いや、しょうがないってことになったんでしょうね。当時ね、中山道も整備するということで、1970(昭和45)年に、長野県の信濃路遊歩道か何かの指定を受けて、それでお金も入れて整備したというのがいろいろあったりしてね。小林俊彦の思いは非常に強かったんじゃないですか。


Q:小林さんの逸話のひとつになりますね。


藤原:もっと勘繰ると、馬籠が藤村記念館で非常に賑わっていて、その一部だけでも妻籠へ来てくれれば、妻籠の過疎地が少しでも和らぐという発想がおおもとにあった。それには馬籠峠を越えてこっちに来てもらわないとならないから、中山道というつながりは欠かせない。岡田昭司さんも、藤村文学に傾倒していて、少しでも藤村との兼ね合いをつけて、こっちに引きこみたいというのがあった。



Q:集落保存にたどり着く前からその発想はあったということですね?


藤原:そう、昭和40年前後は、馬籠峠の、こちらから行って右上のところに、キャンプ場だとか別荘地だとかをつくろうということだった。昭和39年に片山亮喜が町長になって、木曽郡の首長連合で北海道へ視察に行ったときに、あの広い北海道が1冊のパンフレットになってるけど、木曽にはないということで、観光診断してもらえというこになった。それで、千葉大園芸学部の小寺先生が報告書を書いてくれた。そこには御嶽山だとか開田高原は出てくるけど、妻籠っていう名前は出てこない(注1)。

 1966(昭和41)年に南木曽で大水害が起きて、長野鉄道管理局の小泉管理局長が泊まり込みで南木曽駅の災害復旧に1ヶ月いたとき、いろいろ観光診断してくれた。田立の滝だとか柿其渓谷だとか、いろいろ書いてくれた。森のことはいろいろでてくるけど、宿場は、まだ藤村ロマンの範疇では出てきたとしても、明らかに出てくるものではなかったんだよね(注2)。

*注1:『木曽−観光的保護と開発とに関する調査報告』(木曽観光連盟・千葉大学小寺俊吉研究室、1966.4)

*注2:『南木曽町の観光開発について:自然とロマンのふるさとを求めて』(長野県鉄道管理局長・小泉卓雄、1966.11)


Q:森の方が先にあったんだ。


藤原:それで、当時、別荘地と開発をセットにした菅平方式で成功していた長野県の相澤企業局長に、観光診断してくれと言ったら、そんなの作っても、ウンチとゴミしか儲からないんだからやめた方がいいと。妻籠は明治の空気と空がある、そのイメージと、国がやろうとしてた明治100年記念事業とがラップしたわけだ。そのころは、馬籠も馬籠宿とは言っていなかったからね。


Q:何と言ってたんですか?


藤原:ただの馬籠、それから藤村記念館だね。なにしろ、昭和30年はじめから、めちゃくちゃ女子学生が来るようになっていたから。


Q:それで集落保存が浮上したと。


藤原:で、小林俊彦は、片山町長から誰か有名な人を頼めと言われて、太田博太郎先生がキーパーソンだということになった。でも、アタックする術がなくて、間をとりもってもらおうと長野県の文化財審議会会長の一志茂樹さんのお宅を訪ねた。太田先生は審議会の委員だったのね。その時の様子は、小林さん自身でしゃべっているから省くけれど(注)、一志さんは、松本近郊にはまだ、妻籠より価値のあるのがいっぱいあると思っていたのね。でも最後は、奥さんの口添えでなんとか電話をかけてもらって、妻籠には奥谷という建物があるので、それを診断しに来て欲しいと頼んだ。だけど、なかなかウンと言ってもらえなかったそうです。

*注:『妻籠宿保存 50周年記念事業』(公益財団法人妻籠を愛する会、2018.2)18ページ


Q:でも、結局は太田先生は来てくれた。


藤原:診断だけだぞということでね。それで来たときに、片山亮喜町長と小林さんと太田先生が隣町の坂下の旅館で夕飯を食べながら、口説こうとした。町長は全然飲めないから早々に帰ったけど、あとの二人はお互いに大酒飲みなんだね。一升瓶を置いてつぎ返しながら飲んで、「今、先生がうんと言って手をつけなければ、日本にあるこういう集落は永久に消えるけど、その責任は先生にあるんだけどいいか」って口説いた。最終的には、東京から遠いので、名大の小寺先生と名城大学の川村先生に調査をお願いして、一志さんのところに報告書を出して、県は即採択をするみたいな形で、次の年の予算に載せた。


Q:これも小林さんの逸話のひとつですね。で、明治百年記念の妻籠宿保存事業が始まった。


妻籠宿保存50周年記念行事(2018.2.3)で講演する小林俊彦さん


藤原:ただそのとき、はっきりした項目がなくて、議会は通ったんだけども、議員がよってたかってそれをむしり取っちゃって、最終的に残ったのは3300万円。町はなけなしの300万を乗っけて3600万にして、3年間の事業を始めた。


Q:1972(昭和)46年に工事が終わって、重伝建地区制度を定める文化財保護法と都市計画法の改正が1975(昭和50)年。妻籠は、翌年、その第一回目に選定された。


藤原:その経過にもいろんな逸話がある。文化庁に呼ばれて国立教育会館で2時間講演した時、最前列に座っていた老人がすくっと立って「私は大賛成です」と言った。それが藤島亥次郎さんだったとか、文教委員がそろって妻籠に来た時、河野一郎委員長から「大丈夫、法律はできます」と太鼓判を押されたとか。『妻籠宿保存 50周年記念事業』で小林俊彦がしゃべっている。中でも観光資源保護財団の理事長だった堀木鎌三さんには、いろんな場面でお世話になって、伊勢の町並みゼミの時に、小林さんと、林茂さんと、小笠原宏之さんと四日市にあるお墓へお参りに行った。


Q:で、1245.6ヘクタールが重伝建地区になったと。広い範囲を重伝建地区にした効果は? 変な建物が建てられなくなったというのはわかりますが、森の保全とかについては?


藤原::森の保全は、妻籠にとって重大問題なので、当時の営林書と長い長い闘いの歴史があります。ここは豪雨地帯なんで、木を切ると必ず蛇抜けが起きた。何ヶ所も同じところで。木を切るということは蛇抜きの原因になるから、切らせないっていうのが不文律になっていた。ところが、昭和60年か61年にヒノキの天然木の大径木が盗まれるという事件があって、営林署は、盗まれる前に切って金に変えたいって言ってきたわけだ。国有林は、昭和50年から60年にかけては貧乏だったからね。木を切ってね、売り食いしてたんです。そんな馬鹿なということで、町長と議長に請願書を出して、議会の対策委員会ですったもんだすったもんだ1年ぐらいやってね、営林署とは地元住民同意なくして切らないという約束ができた。ただしそのときは、天然木という名前が入ってたんだな。でも今あるのは、ほとんど天然木じゃない。その後に分収育林問題が起きるわけだ。


男埵山分収育林問題を特集する、妻籠を愛する会の『広報妻籠宿』139 https://www.tumagowoaisurukai.jp/news/docs/no139.pdf


Q:分収育林問題?


藤原:分収育林というのは、植林して30年たった山を選定して、みどりのオーナーとして買っもらい、60年後には、全部切って金に変えて、かかった費用を差っ引いて、国と緑のオーナーで折半しますとという制度。当時、一口50万で出資してくれれば、2階建てのマイホームを建てられるだけの柱が取れるという謳い文句だった。ところが、木材の自由化で、ヒノキの価値がどんどん下がって、戻ってくるのは20万から25万ぐらい、下手すると12、3万しか戻ってこないということになって、国中で訴訟が起きた。2003年に、魚釣り行ったらね、看板があったんだよね。大体9ヘクタールぐらいだったか、分収育林が設定されていた。


Q:分収育林は、妻籠にとっては何が問題なんですか?


藤原:分収育林は皆伐だからね。こんな細い木も切って、全部倒しちゃう。それを全部持ち出すというやり方をしてたんで、それじゃ、山が10年もすると根が腐っちゃって、災害が起きるよと。実際、そこらじゅうで災害が起きてる。


Q:その分収育林が重伝建地区内に設定された。


藤原:重伝建地区の線引きのすぐそばだけど、山の境界線はとてもあいまいで、全部が地区内であるかどうかは定かではない。でも、その分収林が伝建地区の中に入ってようと入ってないと、自分たちとしては非常に問題になるところなんで、愛する会に国有林対策委員会を立ち上げて、議会と町長に請願した。議会はね、なかなか採択しないんだよ。それで、林野庁長官に直訴しにいった。帰ってきてしばらくしたら、国が全部買い取りますという返事があって、今後育林していきますと。全部それで収まった。切られることもなくなったし、そこでの災害の危険性はなくなった。


Q:もし、確実に重伝建地区内だったら、二年もゴタゴタしなかった?


藤原:それはある。統制委員会に現状変更行為が出てくるはずなんで、重大協議事項になるはずです。もうひとつ、国有林の男埵山のあったところについては、地元住民の許可なくして切らないっていう約束事ができてるからさ。それを盾にとって反対はできる。


Q:重伝建地区内であれば、営林署であろうと、何かやるときは、統制委員会に出すと。


藤原:そうそう、通告だけであっても出すと。送電線なんかに関しても、電気事業法で保護はされているんだけれども、地元にはきちんと届け出て協議することになっている。統制委員会が発足してから、これまでおよそ4000件の審査を行ってきたんですけども、その中で電力会社のものに関するのは非常に多いです。たとえば、送電線の下の木を障害木になるので切るよという通知が来る。でも、林業でどうのというはほとんどない。林業として木材を搬出してっていうのはまずないし、特に手入れも行われていない。


Q:国有林のことはだいたい分かったけれど、民有林もあるんですよね。里山というか。


藤原:国有林、共有林、民有林と三つあるわけだけれど、もともと御料林だから集落のそばまで国有林が迫っています。里山としては、戦後の昭和32、3年ごろまでは炭焼きして木炭を作ってたっていうのはあるんだけども、今はそれもなくなっちゃったし、持山の木を切って搬出してそれで自分の家を建てるなんていうのはまずない。買った方がはるかに安いから。そこは、林道が入ってるわけじゃないんで、自分の持ち山行くのもひいひい言っていかなきゃたどり着けない。特に相続した場合なんか、そもそも自分の持ち山どこだかわかんない、そんな感じ。


Q:手入しなくて、危なくないんですか?


藤原:もう木が大きくなっちゃってるから。ここの災害の起きるのはそうじゃなくてね、谷筋や沢筋がドンと抜けてくるのがメインだから。そうじゃない山はまず大丈夫だ。


Q:なるほど、林相はほぼ安定していて、蛇抜けの危険度が大きい谷筋や沢筋も、伐採しないということが重要なんだ。パンフレットに「日本で初めての集落保存構想は、建物だけではなく広大な自然景観をも考慮に入れたものであった」とあるけど、その景観を生み出している構造を理解して、守る必要がありますよね。集落をすっぽり包む山をふくめた生態系が重要で、その全体を重伝建地区するべきだと強硬に主張し、実現した小林俊彦さんの慧眼には、敬服します。


自然に依拠しながら創り出される心地よい秩序、それが歴史的町並みの真骨頂だ


Q:ところで、その森をテクテク歩く外国人はどうですか。コロナ前の水準にもどりましたか?


藤原:そうそう、コロナで2019(令和元)年12月にハードルがアップして、ドーンと減っちゃって。でも今年(2023年)になってハードルが完全に低くなってからは、またドーンと入るようになった。2019(平成31)年と2022〜23(令和4〜5)年を比較をすると傾向的には変わってない。コロナになる前も、それからコロナのハードルが下がってからも、来る人たちの国の数だとか、そのパーセンテージもほとんど変わってないんで、コロナの前のときの傾向がこれからも続くと予想しています。ということは、コロナが明けるのを待っとったよという感じで、コロナの入国制限があったためにどっかに浮気していっちゃったとかそういうことじゃなくて、日本に行きたいと思ってた人々が、そのままここに来てるということだと思う。


Q:大人気ですね。


藤原:歩く目的は何だと聞いたら、自然の中でゆっくりしたいっていうのがあるのと、ヨーロッパからの人に関して言えば、緑豊かなところでウオーキングを楽しむというのが高い比率を占めています。足元に緑の草があって花があってという、こんなところはほかにないと言ってる。そういった面においては、何かひとつだけに引き付けられて来ているということじゃないから、しばらくは廃れないというか、急激にアップダウンがあるわけじゃなくて、これからも平均的に人が来るでしょうということが言える。パンフレットの多言語だとか、トイレの洋式化だとか、ずっと前にやったことや、中山道の整備など継続的にやってきたことが功を奏しているかなという感じだと思います。


Q:外来種の駆除とか、ツツジやもみじを植えるといった環境整備にも取り組んできたのですね。やっぱり自然が基本ですね。ただし天然自然ではなくて、人の手が入って維持されている自然に魅力がある。思えば、町並みがまさにそれです。妻籠の1245.4haは、妻籠が特別なのではなくて、これが本来の姿だという気がして来ました。



ハイカーのおもてなしの拠点・一石栃立場茶屋は、2023年2月妻籠を愛する会が譲り受けた。おもてなしのお漬物を用意する藤原さん

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