top of page
  • 福川裕一

7年ぶりの小諸の町並みでは、新しいプレイヤーも加わって、さまざまな動きが始まっていた

更新日:2022年1月16日


 「信州歴史的まちなみフォーラム in 小諸」に参加するため小諸を訪れた。同フォーラムは「信州の歴史的町並みネットワーク小諸大会」と「北陸甲信越ブロックゼミ」を兼ねたイベントで、昨年開催予定だったが、コロナで延期になっていた。

 千葉大学につとめていた時、2000年から断続的に、小諸の町並みの調査や建物活用提案などの活動をたずさわり、多くの学生が貴重な経験をして卒業していった。そして2014年6月の「脇本陣粂屋の活用に向けた調査報告会」が、小諸に行った最後だった。

 小諸へ行くのは7年ぶり。その間、小諸の町並みでは、さまざまな新しい動きが始まっていた。


 10月16日、集合場所の本町町屋館へ着くと、妻籠の藤原さん、松代の香山さん、熊川の宮本さんなど、懐かしい顔ぶれが集まっていた。うっかりJRの小諸までの切符を買ってしまい、少しくさっていたのだが、すっかり持ち直した(みなさんも東京から小諸へ行く時はご注意ください。軽井沢で信濃鉄道に乗り換えるのが通常ルートです)。


 午前中はまち歩き。後で紹介する荒町のデリカテッセン山吹横の海應院参道から町並みの背後に並ぶお寺の境内を伝って本町へもどるというルートを案内していただいた。こんなルートがあったんだ。荒町は伝統的な建物が少ないという点からも、実にうまいアイデアだ。


2001年の写真、今は両脇の建物と共に、すっかり歴史的な町並みをとりもどしている

 本町へもどって、本町のまちづくりのリーダー・塩川塗料店に顔を出すと、奥まで見てくるように言われた。奥は馬場裏通りという細い道に面している。土蔵の間を抜けて裏通りまで行くと、通りに面する土蔵がすっかり修理されていた。塩川さんの建物は私たちが調査を開始した2001年当時は看板で覆われていた。それを修復し、現在は本町の町並みの重要な要素となっている。歴史的な建物の所有者の、建物を維持するご苦労と努力には本当に頭がさがる。


 お昼は丁子庵でおそば。小諸へ行くと真っ先に食べに行くお店だ。食事が終わってお蕎麦屋さんを出るなり、風変わりな乗り物に出会った。これが噂の三輪電気自動車EGGね。


 午後からは、小泉俊博市長もご臨席の本番。「歴史の町並みが地域のブランドをつくる」が基調講演に与えられたお題である。上記の通り、ここ数年の動きには浦島太郎だったので、事前に荻原さんから情報を仕込んだ。そして、下のように、これまでの二つの成果に対し、課題を四つあげ、他都市の事例などを参考に解答を探していくという筋書きを組み立てた。

 そして課題に対する対応を以下のようまとめた:


①「あせらず、態勢(体制)を整えよう」。体制とは端的に言えば町づくり会社のことだ。

②「中心市街地の役割を再確認し、物販店以外の多様な土地・建物の使い道を考えよう」。高松丸亀町商店街のライフスタイルショップ「まちのシューレ963」や石巻まちなかですすめている食と健康をテーマにした復興プロジェクトを紹介した。

③「コミュニティでまちづくりの目標やルールを共有し、自分たちでマネジメントするようにしよう」。川越一番街の町並み委員会と町づくり規範を紹介した

④の重伝建地区導入については「導入のメリットは計り知れない、導入しないデメリットは計り知れない」とまとめた


 実は、④の重伝建地区が現下の小諸ではホットイシューである。これまで小諸のまちづくりを推進してきた人たちの間では重伝建地区導入への期待が臨界点まで達している。小諸の町並みでは、20年前(1999〜2008年)に、街並み環境整備事業を導入した経過がある。この事業で、いくつかの建物の正面が修景され、道路の美装化が行われたが、事業の終了とともにそれっきりになった。この点については次のように総括した。


①街並み環境整備事業の修理修景のレベルは残念ながら表層的。重伝建地区では文化財としての調査にもとづき修理が行われる。専任職員がつきっきりになる。②街並み環境整備事業は時限的だが、重伝建地区は永久である。制度を導入して数年すると町並みが見違えるほど美しくなる。


 続いて、定番の各地からの報告。第17回全国町並みゼミを開催したのち、疎遠になっていた須坂の方々の参加されていたことが大きな収穫だった。

 数日後、信濃毎日新聞に、誌面の半分を割いて「歴史的な町並み 生かす方策は」という見出しの記事が載った(2021年10月21日、東信のページ)。記事の半分は講演の要約で、自分で言うのもなんだが、私が喋っているかっこいい写真付き!(フォーラムのホームページからダウンロードできます:https://machinami.wixsite.com/forum 、講演のスライドもこのページからダンロードできます)


 夜は、小諸町並み研究会の、佐藤英人さん、清水克彦さん、大森俊恵さんたちと小規模な会食。席上、いつの間にかワイン通になった会長の佐藤さんから「温暖化で甲州の気温が上昇、冷涼な浅間山麓にIT関係の人たちが次々とワイナリーを開き、小諸がおいしい葡萄酒の産地になった」と嬉しいような怖いような解説。そして、税理士でもある佐藤さんからの「いよいよまちづくり会社をやる時が来たかな」という頼もしい発言もしっかり耳に残った。


 宿泊は、小諸脇本陣の宿・粂屋。私たちの提案の後、小諸市が買取り公費で改修。DMOである小諸観光局が運営する宿泊施設となった。宿泊できるのは、母家の中庭側の二階、大きな離れ、土蔵の三か所。お殿様が泊まったという本棟づくりの離れは、朝食付き一泊2万5000円前後(2名宿泊の場合の1名あたり)という価格。私は母家に泊まった。中庭が面していてとても快適。天気が良ければ浅間山に続く山並みが見えるはず。続き間のひとつにベッドがふたつ。和室はやっぱり布団がいいと思うのは私だけか。次回は、母家の通り側の、つし二階に格安で泊まりたい申し出たが、車がうるさくて眠れないでしょうと一笑に付されてしまった。手摺によりかかって人通りを眺めるというのが宿場町に泊まるイメージなのだが、車社会がそれを許さない。


改修前の小諸脇本陣。脇本陣の役目を終えてからは、旅館を営んでいた。その屋号が粂屋

 翌朝、とてもおいしい朝食をいただき、町並みの新たな胎動を確認すべくいざ出発。

 ハロウインの飾りの置かれた停車場ガーデンを経て、藤村が通った一膳めしやとして知られる揚羽屋へ。同店は、数年にわたり店は閉められたままだったが、店を買い取ったご夫婦が復活開店の準備中だった。揚羽屋の名物のひとつ、ソースカツ丼の復活が目下のテーマだと話が盛り上がった。

 駅前通り・相生町をのぼって北国街道を右へ、3階建ての櫓が特徴的だった金物店・柳田商店はすっかり取り壊されて空地になっていた。少し進むと山吹味噌の店舗と工場があり、昨日の町歩きでお寺をつなぐルートの出発点になったデリカテッセン山吹に至る。8月にオープンしたばかり。中へ入ると、建物は意外に大きく、奥には燻製の部屋が設らえられている。ロースハムときゅうりのピクルスをゲット。帰宅してトーストしたパンに挟んでつくったサンドイッチはまさに絶品。山吹味噌は、私も時々スーパーで買う。今度も山吹味噌に決まり!


写真手間側に直火燻製室が設られている

 この先、北国街道は左へゆるくカーブする。景観上は重要なポイントで、この辺りの町並みは、道の両側とも保たれている。でもまだ有効な手は打たれていない。そこを抜けると四角の右にアールデコ風の堂々としたファサードの山崎長兵衛商店が現れた。取り壊し寸前に、地域おこし協力隊のおひとりが買取り、建物復興に奮闘中ということだ。


ふたつの写真は2002年の撮影。今もほんとんど変わっていません

 そして左に話題の彩本堂。この建物はたしかお人形屋さんだった。今や、サイフォニスト・チャンピオンが経営する珈琲店、と書いたけど、この日(日曜日)は満員。美味しいコーヒーをいただくのは次の機会にということになった。

 先を急ごう。「ここは与良町 北国街道」の立て看板を過ぎると右に砂利敷の駐車場が現れる。また建物が壊され町並みが途切れたとは言うまい。奥を覗くと土蔵が遺っていてきれいに修復されている。イタリアンのチッタスローだ。店を作ろうと空地を買い求めたところ、奥に土蔵が遺っていて、急遽これを利用することにしたとのこと。店に入ると、正面にピザを焼く窯。残念だが拝むだけで次へ。



 ここまで来ると、与良地区の集会所・与良館まで行かないわけにいかない。もと漆器卸・松屋の建物で、奥には小諸城から移築した銭蔵があることで知られている。市がこの敷地を買い取って更地にして集会所をつくる計画が持ち上がったところ、与良の人々が猛反対。私たちもお手伝いしてワークショップで計画案を練った。結果的に敷地内の全ての棟を残して活用することになった。ただし母家はすこし奥へ曳家した。そうしないと、道路へはみ出ていた軒を切らなければならないからだ。重伝建地区ならそんなことをせずに済むのだが、などといろいろ思い出しているうちに与良館へ到着。中へ入ると、巨大な切り株でつくったテーブルの周りにお年寄りたちが集まっていた。毎日こうして世間話に花を咲かせているそうだ。座敷では別のグループが何かの打ち合わせをしている。建物がイキイキと使われていてほんとによかった。

 本町にもどって、ビストロ アオクビで昼食。床屋さんを改修したイタリアン 。当主はもともとはシェフで、地域おこし協力隊として小諸市で移住政策を担当していた。シェフの腕を活かしてイベントなどに取り組んでいたが、協力隊を卒業するにあたりここでレストランを開くことを決めたという。建物は、床屋さんの外観も内装もほぼそのまま残して上手に改装されていた。白と青のタイルを組み合わせたコントラストがあざやかな床は床屋さん時代のもの。外観より内部を派手にするのは、男の美学ね。調査していた頃は、伝統的な建物ばかりに目がいっていて、写真も撮っていなかった。ほんとうに時代が変わったなと思う。


 この7年の間に、小諸の町並みでは、市と地元企業による投資に、新しいプレイヤーが加わり、それぞれの特技を活かした店づくりが始まっていた。いずれも、自分の店を成功させるだけでなく、町づくりの拠点としていこうと意欲に溢れている。しかし、それらの試みが単発で終わらないためにも、浮上するのが、先の四つの課題だ。解決法のうち、重伝建地区は確かに主要な手段となりそうだ。

 しかし、小諸城下町は、2km以上に及ぶメインストリートに、伝統的な建物が集まっている場所もあれば、そうでない場所もある。歴史的な町並みはまるで一点鎖線のようにとぎれとぎれに点在しているのである。ここにどのように重伝建地区を適用するのか、現実には歴まち法のの重点地区と重伝建地区の棲み分けということになるのだろうが、重伝建地区の概念自体も問われるだろう。このような町にこそ、重伝建地区の制度が有効に働いてほしい。HULに基づく歴史的環境保を願う私たちにも目が離せない案件である。

 12月中旬、荻原さんから、小諸市議会が、重伝建地区調査へ予算をつけたという連絡をもらった。いよいよだ。


閲覧数:234回
アーカイブ
bottom of page